発表・討議を終えて

倫理学年報第49集、2000年3月、p.264-265

*最初に、発表時間を超過してしまったこと、ならびに、せっかく質問していただいたにもかかわらず、同音異義語を聞き違え、当を得ない応答をしてしまったことをお詫び申し上げる。

  「科学技術と倫理学」という大きなセッション・テーマのもとで、今回私が行った「技術との自由なかかわり」という報告は、とどのつまりは「科学技術と哲学者・倫理学者」ということについての一つの提案だったように思う。それを私は簡単に「歴史-文脈主義的アプローチ」と名づけておいた。

  ところで、私が理解するかぎり、 最後の全体討議において盛んな質疑応答および議論の対象となったのは、 「現場」ということ、 「現場へのかかわり」ということであった。 そして、「現場としていかなるものを考えるかは、 その人がいかなる人間であるかに連動する」という主旨の指摘もなされた。 こうしたことは私には一種独特の印象を与えた。 私は「アプローチ」という言葉を用いたからである。 私はどこにアプローチしようとしていたのだろうか。

  私は医科大学の教養部という、すぐ隣で科学技術が営まれているところに勤務しているが、そのことと私の技術論研究とに直接の関係はない。私はいわゆる「応用倫理学」的な関心を追求するのに好都合な場所にいるから技術論を研究しているのでもない。また、言うまでもなく私はたとえば医師ではなく、今後もそういうことはないだろう。私はいわゆる「技術論」の文献を踏査するべきであると考えているが、それは私が「歴史-文脈主義的アプローチ」と名づけたものとただちに同じではない。

  私は報告で「意味」という言葉を用いた。ある程度限定された(この限定そのものも次に述べる作業と連動するが)範囲における技術的営みおよび技術的産物がまとっている意味を解読し、整理し、言語化するということ、これが「歴史-文脈主義的アプローチ」の行うことであり、解釈学的な性格をそれはもつ。私が解釈学的にアプローチしていくのは「意味」だということになる。すると、私にとっての「現場」とはこうした「意味」ということになるのだろうか。

  しかし、私にとっての「現場」が「意味」である、というこの命題には違和感がある。「現場」という日本語に「意味」という日本語が接続するのは、私にはどうもしっくりとこない。それはおそらく「現場」という日本語がもつ一定の色合いによるのだろう。この言葉には、他にありようがないほど一人称的に、そこに入り込んでいくもしくは巻き込まれていく、という色合いがあるように思う。

  もちろん、私は報告において「技術ともっとかかわるべきである」と主張したのであるから、「入り込む」もしくは「巻き込まれる」ということを必ずしも忌避するわけではない。けれども、おそらく私が考えているのは、フランシス・ベーコンが行っているような基本的態度に似ているのだろう。ベーコンはこんなふうに言っている。「……私は、忠実に事物そのものにかかり切って、事物の映像や光線が(視覚の場合にそうであるように)集合することができるのに必要なだけしか、知性を事物から引き離さないのである」(『ノヴム・オルガヌム』岩波文庫29頁)。

  ここで言われる「事物そのものにかかり切って……必要なだけしか……引き離さない」ということ、肯定的表現に変更すると、「事物そのものにかかり切り……事物の映像や光線が集合することができるのに必要なだけは……引き離す」ということ、これがおそらく、私が「意味」ということを言い、全体討議における「現場」をめぐる諸議論に一種独特の感覚(今考えるとそれは違和感であったのかもしれない)をおぼえた理由であろう。そしてそのことは、はじめに紹介した指摘にしたがうなら、私がどういう人間であるかのあらわれであるのかもしれない。

  私は今回の報告に先立つ別の機会に、「これでは政治的社会的に弱いのではないか、科学技術が政治的社会的な性格を有することは明らかであるのに」という指摘を受けている。「歴史-文脈主義的アプローチ」では科学技術が有する政治的社会的な連関をとらえられないというのは誤りである。このアプローチは「文脈」という語を冠していることから明らかなように、決して技術内部的ではなく、まさにそういう政治的社会的な意味連関をも重要な連関として解読しようとするものである。したがって、もしもこの指摘が、それを承認していただいた上での指摘であるのなら、やはり私は上述と類似の違和感をおぼえざるをえない。私としては今のところ「歴史的連関や文脈を踏まえていなければ、方途を誤る可能性が高まる。場合によっては簡単に欺かれる」と応答するにとどまる。

  さきほど「現場」ということについて「他にありようがないほど一人称的に」ということを述べた。これはおそらく「当事者性」と言い換えてよいであろう。当事者の特権性を無反省に承認することにも疑問を抱きうるだろうが、それよりもむしろ私は、今回の報告および議論を通じて、まずは、哲学者もしくは倫理学者は、仮にそうあるべきであるとして、いったい何の当事者であるのか」ということを意識にのぼらせることになった。たとえばソクラテスは、いったい何の当事者であったのだろうか?


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